【e短歌salon】
【e短歌salon】
【電脳短歌BBS・分室】を【e短歌salon】と改名しました。
ここは【電脳短歌イエローページ】の第2のBBSです。
ソフトなディスカッションをおこなう場として開放します。
現代短歌にかかわるテーマと意見交換のスケジュールを決め、
みなさんから広く意見を求めてゆきたいと思っています。
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現在、企画はおこなわれておりません。閲覧のみです。
こちらのBBSには書きこみをなさらないようにお願いします。
活動のPR等は、電脳短歌BBSにてお願いします。
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フリーコメントの書きこみは、
http://www.sweetswan.com/dentan/bbs.cgi
↑こちらの方へよろしくお願いします。
企画と関連のない書きこみについては、
ログの保存の関係上、削除させていただきます。
どうぞよろしくお願いします。
http://www.na.rim.or.jp/~ogihara/0824/
ネット上批評会の際はみなさまどうもありがとうございました。
今発売中の「歌壇」11月号の「読み」についての座談会で、
オンライン林檎批評会での読みについて少しふれました。とご報告まで
ではでは
飯田有子さんから、丁寧にまとめようとしているうちに
多忙になってしまい、コメントがなかなかまとめられません、
すみません、というメッセージをいただいています。
時間を経過するとまとめるのはなかなかむずかしいものなので、
いったん歌集批評会には区切り付けてのんびりお待ちすることにします。
なお【e短歌salon】はしばらく小休止に入ります。
スタッフ及び飯田有子さん以外の方の書きこみはご遠慮下さいませ。
次回のディスカッションでまたお会いしましょう。(^^)/
★
アクセスカウンタ=35920
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
第2回【e短歌salon】歌集批評会
◇対象歌集=飯田有子第一歌集『林檎貫通式』
◇開催期間=2002年1月14日(月)〜2月2日(土)
◇進行担当=水須ゆき子、荻原裕幸
◇コメント番号[825]〜[1322]
◇カウンタ番号25000台〜32900台
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
五十嵐きよみ
高見里香
柳谷あゆみ
ゆらゆら
藤原龍一郎
本田瑞穂
松木秀
なかはられいこ
りもこ
神崎ハルミ
治郎
原浩輝
杉山理紀
東直子
ゆう(中島裕介)
風間祥
村上きわみ
辰巳泰子
枡野浩一
ほむらひろし
大辻隆弘
鈴木風花
石井辰彦
葡萄
並木夏也(並木学)
田中庸介
岡田幸生
信治
也夫
橘三郎
ウメコ
飛鳥
鈴木収春
大畑
丸山進
高原英理
石原文朗
佐藤弓生
かねこ
如月希
千名民時
正岡豊
入谷いずみ
佐藤りえ
梅本直志
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飯田有子(著者)
水須ゆき子(進行担当)
玲はる名(BBSスタッフ)
ひぐらしひなつ(BBSスタッフ)
荻原裕幸
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
コメントどうもありがとうございました。(^^)
> 論についての具体的なコメントは、またのちほどさせていただきます。
とのことなので、
引き続き、コメントお待ちしております。
どうぞよろしくお願いいたします。
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みなさまこんにちは。もしくは初めまして。飯田有子です。
「林檎貫通式」の作者です。
スリリングな会の模様、どきどきしながら見ておりました。
おおぜいの方の意見がきけてとても嬉しかったです。
このボールどこへ行くのかなと目をつぶってえいっと投げたら、
思いもかけない返球がいっぱい(剛速球とか変化球とかサインボールとか)
もらえた、というような。
次のボールは肩を鍛えてもっともっと真剣に投げますね。
20日間の長きにわたり司会進行をつとめて下さった水須ゆき子さんには
心からの感謝と肩たたき券を捧げます。
セッティングの労をとってくださったもうひとりの司会荻原裕幸さん、
書き込みしてくださった皆様、
読んでくださった皆様に、御礼を申し上げます。
論についての具体的なコメントは、またのちほどさせていただきます。
>>1319
0)>>飯田有子さん、水須ゆき子さん、みなさん
こんにちはORはじめましてORごぶさたしてますORおつかれさまです。
font color=“444444”の字で、失礼します。
あそびも仕事も差別なく短歌とかもしたりとかもしてます、梅本直志と申します。さて、
1)すべてを選択します別名で保存します膝で立ってKの頭を抱えました
おれは「すべてを選択します」「別名で保存します」はこの短歌の主格もコンピュータの心だからじゃないかとも思いました。
この短歌の主格の心のマドにまさに今表示されてる情報をまさに「すべてを選択します」「別名で保存します」したんじゃないかと思いました。
やさしい短歌だと思います。さて、
昔、ウルトラヴォックス! というグループに「I WANT TO BE A MACHINE」っていう曲がありました。
おれの好きな、飯田有子さんの短歌は、
2)折り重なって眠ってるのかと思ったら祈っているのみんながみんな
●2句の8音。
●●大きいものを対手にしている。
●●●言うべきことを言っている。
とかも、好きな。思いました。で、ツッコミと感謝を。
3)さてごはんにかけたらいやなものの第一位はdrrrr除光液でした
おれはこの短歌の主格は普段ごはんになんかをかけて暮らしてないと思います(泣く、笑う)。
除光液っていうものは、シンナーのようなものでしょうか。
ごはんにかけたらいやはいやでしょうが、第1位じゃない。くえると思いました。
おれは、さてごはんにかけたらいやなものの第1位はdrrrr、茶わんだと思います。くえないし。逆だし。
で、おれは、昔、飯田有子さんのサイトの中で、飯田有子さんの短歌を見て、もう1回、古語とかも勉強してみようと思いました。
それはけっこう楽しかったです。
ありがとうございます、と言っておかせていただきます。
ありがとうございます。
20日間にわたるご静観、どうもありがとうございました。
最後に、著者からひとことコメントをいただきたく存じます。
今晩でも明日でも、落ち着いたところで構いませんので、
どうぞよろしくお願いいたします。
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これで、飯田有子歌集『林檎貫通式』批評会の
コメントの書きこみを終了いたします。
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アクセスカウンター=32885
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[1312]で>須藤さんはじめ・・・・須藤さん→水須さんのミスタイプです。
水須さん、最後まですみません。みなさま、本当にありがとうございました。
挨拶をさせていただきます。
★
今回も多くのみなさんから貴重なコメントをいただき、
ウェブ管理人として深く深く感謝いたしております。
歌集『林檎貫通式』というテキストの、
可能性をさまざまに探ることのできた
有意義な批評会だったと感じました。
インターネットにおける短歌批評のシステムは、
まだまだスタートしたばかりの未知数のものです。
こうして回を重ね、新しい発見をしながら、
場をさらに成長させてゆきたいと考えております。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
また20日間にわたる進行を担当いただいた
水須ゆき子さん、おつかれさまでした。
某パソ通の電子会議室で見かけて以来、
そのネットコミュニケーションの手腕を
ぜひオープンな場所でふるってもらいたいと
ずっと思っていたのでした。
「すごく苦しかったけどもっとすごく楽しかった」
とても印象に残る感想でした。(^^)
どうもありがとうございました。
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千名民時さん、正岡豊さん、入谷いずみさん、佐藤りえさん、
最終日にてのご参加、まことにありがとうございました。
ゆらゆらさん、鈴木風花さん、風間 祥さん、原 浩輝さん、
大辻隆弘さん、枡野浩一さん、神崎ハルミさん、りもこさん、
五十嵐きよみさん、田中庸介さん、大畑さん、
最後まで参加して頂き、どうもありがとうございました。
さて、二十日間に渡りました『林檎貫通式』批評会、
まもなく終わろうとしております。
直接この場で発言して下さいました皆さま、
批評会をご覧になって下さいました皆さま、
本当にありがとうございました。深く御礼申し上げます。
司会としてというより、
一参加者としての感想を述べさせて頂ければ、
自分の中で「短歌の読み方」というものが確実に変わったなと感じています。
たとえば歌会などの際に、
「状況が分からない」とか「作者の位置が分からない」
といった指摘が出ることがままありますが、
今まで私はそうした指摘を歌に対するマイナス評価だと受け取って来ました。
しかし、この批評会を通して、
そうした具体的な状況や歌の絵柄などを超えて、
もっと歌の芯といいますか、
作者の情念や意識、感覚などといったなかなか具体的には言葉にできないもの、
それこそを本当は何よりも第一に読み取り、感じ取ってゆくべきではないのか。
また、そのようなエッセンスのみを純粋にぶつけてゆく歌があっても良いのだ。
おそらく、他の方々からすればごく当たり前であろうことを、
自分としては今回初めて教えて頂いたような気がしています。
(もちろん、具体的な状況や作者の位置などを明確にすることで、
より生きて来る歌も世の中には数多くあるだろうとは思うのですが)
その他にも、歌集というものの構成の仕方や読み方など、
学ばせていただけたことが実にたくさんありました。
私にはまだまだ破らなければならないけれども破ることができない、
見えたり見えなかったりする膜のようなものを何重にも感じますが、
その内の幾枚かは知らず知らずのうちに破いて頂けたのではないか、
もしくは破るためのヒントを頂けたのではないかと有難く思っております。
批評会の司会としては未熟な点ばかりで、
参加者の皆様にご迷惑をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます。
二十日間の長きに渡りましてのご協力、本当にありがとうございました。
改めて「今夜の私の三首選」です。
しゃっくりのためにふたたびずり落ちるプリマドンナの細き肩ひも
れいこさんあれは誘蛾灯です青いけどまた髪のばしてくれますか
静かなる首飾りたち一つずつ首が充たして草原となる
ええっと、もっと正直に感想を言いますと、
この二十日間すごく苦しかったけどもっとすごく楽しかったです。(笑)
では、この後は荻原裕幸さんに全てお任せしたいと思います。
大変失礼しました。今後ともどうかよろしくお願い致します。m(_ _)mhttp://homepage2.nifty.com/mizusu
[1271]で、枡野浩一さんが、
> ああ、飯田有子さんは、
> わかってて、
> あっち側の短歌をつくろうとしてるんだ……と、
> 肌で実感しました。
ということを書かれていました。
議論の時間がなくなってしまいましたが、
この感覚について、ほんとうにあっちとこっちなのか、
あっちはどこでこっちはどこなのか、などなど、いずれ、
きちんと議論できる機会をもうけたいと考えております。
★
> 私には考えがあって、
> 枡野浩一なのです。
これ、名言ですね。好きです、この科白。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
須藤さんはじめ皆さんの書き込みは、全部からだに染み入るように新鮮でした。
感謝します。啄木や茂吉を読んだだけで短歌とは遠ざかって、現在どんなふう
に短歌が詠まれているのかほとんど知らない自分にとって、飯田有子さんも、
そのうたも初めてここで知った次第です。難解な歌もありましたが、すっと入っ
てくる歌も多かったです。
そういう私の三首選です。
・すべてを選択します別名で保存します膝で立ってKの頭を抱えました
・女子だけが集められた日パラシュート部隊のように膝を抱えて
・コンパスを踊らせながら決めたんだいちばん言いたいことはいわない
みんな、柔らかくて心地よく響いてきました。
皆様、こちらこそ。
長かった批評会でしたが、後半の二週間、じっくりと
対象とされた歌集につきあうことができて、とてもたのしかったです。
初めのほうでは「ことばのダイナミズム」というような、飯田短歌の第一印象に
ついてお話ができました。飯田作品の上の句と下の句の間には深くて渡れない溝が
あるということが前半の「わかりにくさ」論議のなかから抽出されてきた問題点だと
思ったので、とりあえず価値判断はぬきにして、それがどのような溝なのか、
あるいは、一個の作品を一曲のことばの音楽として考えたときに、
その作品がどのようなうねりをもって書き下ろされているのか、
そんなことについていろいろな東西の詩学を援用して掘り下げていく展開になりました。
まずぱっと見には、ここにはまったく違う二つの要素を対置した
山水画のような「配置」の文学の「わかりにくさ」があるように見えたので
詩的飛躍について考えるところから始まりました。
ところが、皆様と丁寧に作品を読んでいくうちに、
上の句と下の句を渡す橋のようなものが実は省略されており、
かなりの作品についてそれをまがりなりにも指摘することができるという点、
また、意味の重層性が飯田作品には見受けられ、
ポジティブなものとネガティブなもの、あるいは明るいものと暗いものが
同時に読者に提示されていることが多いという点、
についてかなり接近することができました。
この「同時に提示されている」方法における比較として、正岡作品には
毛糸の端を毛玉のなかに突っ込んでいるような円環構造があるのに対し、
飯田作品ではシリアスな物語と表層的な「面白ぶり」の要素が同時多発的に進行するだけで、
それらが円環構造を形成するということはないのではないか、という仮説を述べました。
いい悪いは別にして、正岡歌集よりも飯田歌集のほうが「読者」を信じている、
とも言い換えられるかと思います。荻原さんがすぐ下の書き込みでふれてくださっている
「時代性」という観点からも、またゆっくりと論じあってみたい話題ですね。
ともかく、今回は文学との「こく」のあるおつきあいができたなあという印象が強いです。
文学論というものは、作品を何らかの文学的結論や社会的主張の道具にしてしまいがちですが、
それが作品の情報量のあまりの多さによってサスペンドされたまま、
目の前のテキストの検討を真摯に進められるという、
とても幸福な空間を共有できたと思います。
どんどんと引用されてくる作品の読みに風間さんや大辻さんやりもこさんと深く熱中でき、
考えれば考えるほど面白い解釈が皆様から引き出されてきたのは、
やはり飯田短歌が現在進行形の若い文学だからですね。
そんな現在進行形の文学的な活気が満ち満ちた批評会に参加させていただいて、
ことしもよい作品が書けそうな予感がしてきました。
司会進行の水須さん荻原さん、ほんとうにどうもお世話になりました。
それでは、またどこかで。
http://kiss.to/kisaki
こんばんは。批評会も、あとわずかですね。
ぽっぽさん、荻原さん、皆さん、
そしてもちろん飯田有子さん、ありがとうございました。
私自身のことを書かせていただくと、
「少女」について語った後は、
どう読んでいいのかわからない歌の前で、右往左往してばかりでしたが、
わからないなかで、わからないなりに書いたこと、
皆さまのコメントや、それをもとに考えたこと、
あれやこれやの体験をひっくるめて、
批評会が始まる前に比べると、『林檎貫通式』の世界にだいぶ近づけたような、
少なくとも、近づける糸口が見つけられたような気がしています。
とても貴重な体験でした。
有意義なひとときをありがとうございました。
http://www.parkcity.ne.jp/~noma-iga/
[1246] [1248]で、田中庸介さんが、以下のように述べています。
> やはりネガティブな文学的な部分が
> 「面白い」という感覚で表層的に中和されて「シースルー」になる、
> という構造を作者は意図しているのではないか
> このあたりについて、私たちは第一回の批評会において[435]あたりで正岡豊における
> 「中和性」あるいは「遠さ」「やわらかさ」として荻原さんと議論しました。
> 私がここで「中和」という荻原さんのタームをまた引用しているのは、
> もちろんその議論の延長上にあるわけなのですが、
> 正岡さんがネガティブな主題に対してそれに反するものを「配置」することで
> その主題に完全なスクランブルをかけてしまうのに対して、
> 飯田さんは主題に対してそれと違うレベルの表層的なところで
> 「面白さへの回収」を行なって文学臭的恥ずかしさを処理することで、
> 主題そのものの剛直さを残したままそれを読者に手渡すことに成功していることに、
> 私はその違いを見ています。
正岡豊さんと飯田有子さんの「違い」の分析について、
ぼくは田中庸介さんとまったく同じ見解です。
正岡さんの『四月の魚』における「中和」について、
田中さんのコンテクストに即して補足的に言えば、
彼が「完全なスクランブル」をかけてしまったのは、
そうしないで作品上に何かをアクティブに立ちあげたとき、
ネガティブな文学、つまり「カルチャー」、
に抗するもの、つまり「カウンターカルチャー」
が立ちあがる/立ちあがってしまう、という事態を
意識/無意識に回避したものかも知れません。
この事態は、歌集『四月の魚』が、1980年代そのものと
徹底して対峙した痕跡だとも言えそうな気がします。
一方で、飯田有子さんの「面白さへの回収」は、
「カルチャー」に対して「カウンター」も「サブ」も
そもそも大元にあったはずの「カルチャー」自体も、
いずれもそのままでは成り立たなくなった1990年代以降における
時代とのある種の対峙の痕跡なんじゃないかと感じます。
つまり、まったく機能しなくなった種々の「システム」に
ある種の新しい「配線」をこころみて再生させているような。
だから「文学臭」も「カウンター/サブ的匂い」もない
主題そのものと面白さといった並置が可能なのではないでしょうか。
これが一見、文学的なものとエンターテイメントといった様相を呈する。
このあたりに、[1154]に感想を書いたような、ライブの批評会における
短歌/非短歌の分岐点を探ってゆくような読みを誘発した原因もあるのかも。
もうちょっと掘りさげてみたいのですが、時間がそろそろ限界でした。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
いまはなにをしてもはじめて雪のはらいたいのいたいの飛んでおいでよ
の方が、
初出という、
なにをしてもいまははじめて雪のはらいたいのいたいの飛んでおいでよ
より、私は好き。
でも、「最終日なので議論というかたちではなく」というのはすべてにもう及ぶ時間だと思うので、好きというのにとどめたく思います。
もうこの批評会も最後なのですね。
すごくさびしいです。
批評会の間、いろいろと気付かされることや
考えさせられることが多く、
一回の金縛りと二回の遅刻(会社)をしてしまうほど
わたしにとってエキサイティングなものでした。
*
水須さん、荻原さん、大変お世話になりました。お疲れ様でした。
みなさん、いろいろとありがとうございました。
そして、飯田さん、すばらしい歌集をどうもありがとうございました。
*
最後に三首選を書いておきます。
・まりこさんまりこさんなら誰でもいいきゅうりパックの隙間より笑む
・コアラのマーチぶちまけてかっとなってさかだちしてばかあちこちすき
・折り重なって眠ってるのかと思ったら祈っているのみんながみんな
では。
大辻隆弘さんと田中庸介さんの
「意識の流れ」についての議論が、
[1131] [1164] [1166][1167] [1168][1171][1172][1173]
で展開されました。この角度からの、つまり、
歌人と詩人が対峙しての短歌の議論は、ともすれば、
詩人に、あるいは詩の理論で短歌が読めるわけがない、
歌人に、あるいは短歌の理論で「詩」がわかるわけがない、
といった不信感同士のぶつかりあいになりがちで、
どうしてもある超えられない壁を感じてしまうのですが、
今回の議論はそこをはっきりと超えた動きになっていて、
しかも、短歌の批評言語と詩の批評言語の接点を見せた
超ジャンル的な議論としてきわめて印象深いものでした。
歴史的、という形容語を付けても大袈裟ではないでしょう。
[1166]で、田中庸介さんが、
ウルフ、ジョイス、フォークナーといった流れと結びつけた
「意識の流れ」「場所の移動」といった観点で読むべきものは、
文学的潮流というレベルを超えて、飯田有子さんをはじめ
現代短歌にもあきらかに浸透している事態だと思われます。
また、そこから展開された
> 「そこに見えない必然性がはっきりと感じられるから面白い」というときに、
> はじめて本当にその飛躍が成功したというべきではないか
という「詩的飛躍」の説明・意味づけは、
読んでしまえば自然なことのように感じられるかも知れませんが、
少なくとも現在はまだ、現代詩においても短歌においても、
新鮮さをいささかも損なっていない大切なことであり続けているはずです。
[1167] で、大辻隆弘さんが、
> 私の愛惜する日本語の「てにをは」は、
> 論理的な因果関係をあらわす
> 痩せた、ひからびた記号ではないのです。
と、田中さんへの反論風に展開した「てにをは」の説明は、
BBSの議論の流れとしては自然に出て来たものに見えますが、
ここでもまたとりわけ大切なことが語られていました。
大切なこと、と言うか、画期的なことですね。
「私(像)」へすべて回収されるための「てにをは」ではなく、
「生身の作者の生きている生動感」へとつなげる読みは、
短歌の深いところの手ざわりを摘出しているとともに、
短歌を短歌の「外」でも読める経路をつくっていると感じました。
いずれも飯田有子さんの作品に触発されて出たコメントですが、
短歌のある輪郭を見せてくれるたいへん興味深いものでした。
上記のくだり、未読の方は、ぜひ一度熟読されることをお奨めします。
http://www.ne.jp/asahi/digital/biscuit/
えーと、ながながとすいません、佐藤りえです。
ごちゃごちゃとごたくを並べましたが、特に好きな歌をいくつか。
●そうでない夜にも折って分けあえばウエハースは溶けやすき菓子
●かんごふさんのかごめかごめの(*sigh*)(*sigh*)(かわいそうなちからを)(もっているのね)
●雪まみれの頭をふってきみはもう絶対泣かない機械となりぬ
●水にも宙にも向日葵が群れて笑ってオレシステムは稼動始めた
●すべてを選択します別名で保存します膝で立ってKの頭を抱えました
とくに最後の歌は、無機質フェチ(?)としてはうれしいかぎりです。あのパソコンの、妙に礼儀正しい居住まいをアイロニカルに表現するとこうなるのかなあ。マックの選択肢のなかの「なにもしない」というのを見てふきだしたのは私だけではないはずだ。
★
●注ぐ水とあふれだす水はそっくりね忘却リストをもうお寄越しなさい
かなり以前にきいた話で原典がまったくわからないのですが、この世界はひとつの器のようなもので、魂は一定量に保たれていて、なので実はひとが生まれる数と死ぬ数は同じになるようになっているのだ、という話をきいたことがあります。「注ぐ水」と「あふれる水」を読んで、そんなことを思い出しました。いや、でも弱いな。うーんどうかなあ。
とにもかくにも、「林檎貫通式」と飯田短歌の秘密にせまる楽しい3週間でした。
水須さん、みなさん、おつかれさまでした。ありがとうございました。
それでは有子さんの登場をお待ちしてま〜す。シャンシャンシャンシャン(鈴を鳴らしている)http://www.fsinet.or.jp/~la-vita
たびたびどうも、佐藤です。
わかりにくさという言葉が頻発された批評会だったようにおもいますが、たしかに文脈の流れが不自然な歌がある、「林檎貫通式」ですね。
●誰が誰が 冷蔵庫にひゅんひゅんと投げつけられる猫型磁石
●魚の輪のみだれて散るをゆびさすとこれはわたしの誰を呼ぶ声
●蜻蛉を模した空へとみぎひだり足を浸してきみはいる、決定
言葉の取捨選択が大胆に行われ、かつ削るポイントがすごいところにある、のがその原因なのではないでしょうか。
●駅を流れる水に口までつかりつつあなたへと(切符を)さしむける機械の口が
掲出歌はカッコ書きの部分が補足ですが、通常なら削らないと思われるこの補足の部分を捨てたゆえ、歌の内容が理解しづらいものになっているわけです。もちろんこの補足は我々の読みのひとつであって、正解である、というものではないわけですが。
これは作者がなにを最優先させるか、で推敲してのことで、わかりにくくしようという意図のもとになされているものではないとおもいます。飯田さんが最優先させようとしているのは「場面」ではなく、一瞬の「体感」なのではないか。
掲出歌を切符で補うとして、機械のいじらしさを(じわっ)と感じる。しかしそれは一瞬のことで、まさしく1首を読むスピードで感じて、次の歌には持ち越さない。高原英理さんがお書きになったことともかぶりますが、そうした感覚を表現するためには、情景の描写をも割いているのではないだろうか、とおもうのです。http://www.fsinet.or.jp/~la-vita
こんばんは。
>初句の勢い、二句目の効果、どう考えても初出の形の方が、短歌として良いと私には思えるので、この歌が現在の形で多数の人に引用されることが不安なのです。
なにをしてもいまははじめて雪のはらいたいのいたいの飛んでおいでよ
私も初出のこちらの方が、断然いいと思います。
なぜ、飯田さんが現在の形に改作されたのかお聞きしてみたいです。
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最後に、ネット批評会に歌集も読んでいないのに参加させてもらいありがとうございました。すごく刺激的な体験でした。
次の機会があれば、是非また参加したいと思います。
水須さん、すこし早いですがお疲れ様でした。
そしてみなさん、ありがとうございました。
飯田有子さんのご登場を楽しみにしています。http://www8.plala.or.jp/haru3-kan/
なによりも、
飯田有子「林檎貫通式」に感謝!(←中森明夫風に)http://6004.teacup.com/nomasu/bbs
KENT WEB[LIGHT BOARD v5.52]